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和菓子歴史研究 若松屋阡壱・後藤幸夫

桃の歴史

桃の原産地はイランと考えられていたが、1882年ド・カンドルによって、イラン地方の桃は自然生えの野生化したものであることが実証され、改めて中国の甘粛省などの高原地帯が真の原産地であることが解明された。桃の栽培は、2500年前といわれているが、日本で桃という字が初めて現れるのが、『古事記』である。それは太古に中国から渡来したものか、我が国の原産か定かではない。中国の桃の歴史は古く、中国の桃がシルクロードを通りイランに定着し、雨の少ない中央アジアの気候に馴化して香り高い桃になった。この桃が紀元100年頃にローマに伝わり、その後ヨーロッパに広がったとされている。古代中国では桃を仙果としめでたい果物の一つに数えられている。桃を食べて3000年寿命を伸ばした西王母の故事や武陵桃源などのユートピアの話もある。その中心思想に桃には邪気を払う力があるという民族思想がある。日本にもイザナギノミコトが、ヨモツシコメに追いかけられた時、桃を投げて難を逃れたという伝説がある。又災難をのぞく行事の追難の儀式では桃の弓に葦の矢をつがえて鬼を追い払うという。又、子供の成長を願う桃の節句、犬山に伝わる桃太郎伝説や犬山城の厄除け難逃れの意味を持つ守り瓦、外町・先聖寺の寺門の桃の彫刻などもそういう意味合いを持って現存している。 我が国の桃は、もともと花木として改良されたもので、江戸時代には、200種類以上の花モモが栽培されていた。花を観賞するのが主であり、果実の方は見るべきものがなかった。
桃が果樹として本格的に栽培され始めたのは明治8年の事である。中国から上海水密桃が導入されたのがはじまりである。又、ヨーロッパ系も14品種が導入されたが自然条件が違いすぎるため育成がならなかった。日本の桃は上海水密桃の血を受け継いだ品種が多い。最初は水蜜桃も落果や虫害があまりにも多いため普及しなかった。しかし、日本の桃の先覚者たちは幾多の桃の問題点を解決し、見事に桃の栽培に成功する。明治30年以降に改良された金桃、白桃は日本の肉質の軟らかい独特の物として脚光を浴びることとなる。 昭和2年、白桃の考案者である岡山の大久保重五郎は偶然白桃の中から実生種を発見、これを育成して大久保と名付けた。これが戦後、養蚕産業の衰退とともに、桑畑を桃畑に代え日本の桃産業の発展を見る事となる。(くだもの歳時記・草川俊著書より引用)桃は青森から鹿児島まで広く分布している。犬山の桃や春日井や小牧の養蚕のための桑畑が斜陽産業になり、愛知の桃、犬山の桃として生育されるようになり、現在に至る。この地方の桃は中部地圏内の需要を支え、主に関西は岡山の桃が多く、関東地方は福島や山梨の桃が主流である。ほかに山形や長野も桑にかわって桃が栽培される様になった。桃の産地は夏の育成期に雨の少ない地方で桃本来の特性である高原地帯においしい桃が出来るとされている。桃の品種も土用にはいると、大型のうっすら紅色の種から離れにくい粘核種の桃が味も良いとされて来た。我が国も缶詰用の桃をヨーロッパ系とアジア系の交雑により黄色、朱色の缶桃が生産されている。 犬山を含む濃尾平野の桃は6月中旬より8月半ばまで栽培されている。大久保、布目からはじまり早生の桃は武井白鳳で種離れの良い加工に適した桃の出荷が終わる。日川から白鳳そして愛知白桃が出荷の最後となり桃の収穫が終わる。早生から段々と大ぶりになり、果肉も赤みをおびる様になり、種離れも悪い品種になるが、段々と甘さが増すといわれている。

 

犬山の観光地の歴史と和菓子の経緯

犬山は江戸時代から城下町として栄えて来た。鎖国が解けて明治時代となり、桃が日本でも栽培されるようになったと同様にいろいろな産業も著しく発達してきた。それは、鉄道の発達が大きな要因である。日本の各大都市と同じように我が町、犬山も急速に発展を遂げる。
大正元年に名古屋から犬山口駅まで鉄道が敷け、昭和の始めになり、尾張地方では名古屋に次ぐ観光地として脚光を浴びるようになった。昭和2年、犬山城を核に桃太郎神社の再興に続き、日本ライン下り、鵜飼、犬山遊園地(現在の犬山ホテル地内)も開園され、旅館や飲食店や土産物店では、げんこつや州浜の土産菓子が犬山名物として重宝された。全国のみやげ物菓子を調べと、岡山の黍団子は明治30年前後、金沢の長生殿の打ち物も同時期に鉄道の発達とともに店舗を大きく構えおおいに売られ始めたと記されている。土産菓子は生菓子と異なり、砂糖を大量に使ったものや乾燥させた煎餅等の雑菓子、駄菓子が主流であった。第二次世界大戦後、時代も落ち着き第二次観光ブームになり和菓子文化の確立していた犬山の菓子職人の大勢は一斉に観光地を舞台に土産物菓子に適したげんこつや州浜等日持ちの良い製品を選び製造販売していった。  昭和30年以降、車社会の到来で、第二次観光ブームが到来、犬山には新たに明治村やラインパーク(現在のモンキーパーク)続いてリトルワールドのなどの大型観光施設が出現した。高度成長時代も重なり大発展を遂げることになる。全国的に又、新たな菓子が製造され考案された時代でもある。

 

今後の犬山が目指す桃の産業方法は

今、経済も政治も低迷の時期である。今までの経済成長は、日本がアメリカの経済成長を見習いまねる事で経済を支えてきた。同じように犬山も大都市や繁盛している地域の模倣をしながら成長してきた。今後、犬山が目指す産業形態は犬山独自の全国にない産業方法を見つけだすことにある。その方法はと、犬山の古い歴史を尊びながら観光地としていかに第一次産業から二次、三次産業までをトータルに結びつけるかである。桃産業も今こそ脱皮の時期である。岡山のまねを脱しなければいけない。同じ桃太郎伝説の地でありながら、同じ方法ではなく犬山の観光と桃を結びつける接点を考え行動する。第一次産業と第二次産業の連携により両者がともに発展していく方法を考えれば、将来の展望が見えてくる。犬山の桃の特性を考えると新たな栽培方法で早生の武井白鳳などの成熟桃をいろいろな加工商品のアイデアを創案工夫しながら「生食桃」でありながら「加工桃」としての栽培方法をかえていくことにより、新しい全国では行われていない「加工桃」及び「生食桃」の生産出発があると考えられる。「生食」の生産量や絶大なる甘味、風味の点で犬山や愛知の桃では、全国一番にはなれない。「生食」より「加工桃」で名前を挙げることがのぞましい。そういう観点で日本の各地に犬山の存在を認めさせる事が産業として生き残れる方法である。それが達成された時に、観光地犬山に素晴らしい桃産業があると誇れるのである。それは、桃の一年間を通しての第二次加工を含めた産業形態にくわえ観光地としての第三次産業までの総合開発の推進以外に道はないと考えられる。

 

後藤幸夫が考えた桃の加工法(報道発表・平成5年)

我が国ではじめて誰もが考えなかった桃の保冷方法保存を試作考案。それにより年間通して桃加工商品を製造する事が出来るようになった。桃の荒い繊維だけを残し、細かい繊維を砕く方法を発見、全国にない軟らかい熟成桃をさらに軟らかい果肉に加工する事により、糖質などのエキス分をたっぷり含む桃の加工商品にあう保存桃果肉を開発した事である。果物の糖質である果糖は蔗糖(砂糖)と融合させることで全ての果物はアルコールに変化する。桃をそのほんの少し発酵をさせる事により、生では味わうことの出来ない新しい桃の加工食品ができあがる。桃菓子及び琥珀色の発酵熟成させた桃の丸ごとジャムの開発、桃の軟らかい果肉入りの桃ジャム、その他にアルコール成分を含んだ桃エキス等の桃の加工商品に15年余りにわたり研究し現在に至る。

 

後藤幸夫が考案した加工桃の栽培方法(考案実施 平成5年より)

『若松屋阡壱』では自然にやさしい、環境問題の取り組みとして、独自の加工桃を契約栽培させている。桃加工商品に一番適している桃は当店において早生の桃である。その桃は種離れもよく、加工時に香りが適度に摘出でき、果糖の邪魔な甘味酸味がなく、桃の果肉の色も白く大きさも加工品として優れている。すでに犬山の桃生産者と桃の大きさ規定と栽培方法の契約栽培を実施している。現在、桃生産業者に加工桃の栽培の方法を指導実施して犬山の桃産業に貢献している。現在の契約農家数は、2樹組合の契約栽培で、約35,000粒使用している。

 

観光地に合わせた桃産業の提案

今までの犬山は、大正時代の鉄道の発展から車社会の観光に至るまで、名古屋鉄道株式会社のお陰で発展したといって過言でもない。どこの大都市でも、大観光地でもすべて同じ様の経緯により発展に至ったと考えられる。その手法はスーパー方式がアメリカから導入され、日本はその方式を見習えば良かった事と似ている。日本経済は高度成長の時代が終わり、飽食も時代になり低成長時代に入り、新たな独自の手法を見いださなくてはならなくなった難しい時代でもある。犬山も犬山発展の成功は犬山の埋もれている資源や土地を有効に再利用する事がこれからの課題である。